2013年9月27日金曜日

内田春菊『南くんは恋人』感想  さよならニルス・ホルゲション

(注意! ネタバレあります)

『あいまいな日本の私』で大江健三郎は、幼き日に、四国の山奥の村で読み、勇気と自信を与えてくれた本を二つあげていた。それは『ハックルベリー・フィンの冒険』と『ニルスの不思議な旅』だった。もちろんノーベル賞受賞記念講演なので、ニルスをあげたのは、発行元のスウェーデン・アカデミーへのリップサービスもあると思う。
なにしろ『ニルスの不思議な旅』は、スウェーデン政府が、自国の地理を小さい子供たちに面白く学べるようにと、セルマ・ラーゲルレーヴに発注した国策文学なのだ(お互いの顔すら知らない国民同士に、一つの共同体意識を持たせるため、その国の地理的輪郭をインプリンティングする)。付記すると、セルマ・ラーゲルレーヴは1909年のノーベル文学賞受賞者である。
ニルス・ホルゲション少年は、妖精の魔法で小人に変えられてしまう。そこでガチョウのモルテンの背中にのって家出し、素晴らしきスウェーデン旅行に出発する。しかし、その最後は、物悲しい。目出度く元の大きさに戻ることができたニルスは、鳥の背中に乗れず、一緒に旅した鳥達とわかれて終わる。
江口夏実『鬼灯の冷徹』には、死後の一寸法師が出てくる。この一寸法師は「一寸じゃなくなった時点で俺の価値は世間的にゼロだって!!小さくなりたい。もう一度……」とぼやく(一寸ではなくなった一寸法師は、中納言にまで出世しているが)。一寸法師もニルスも、そのサイズを活かして冒険し、それこそ読者に勇気と自信を与えてくれるが、元のサイズに戻れば平凡な人間だ。しかし「小さきもの」が特権的に活躍するのは、エンタメ世界にのみ通用する法則にすぎない。

内田春菊『南くんは恋人』(集英社)

先月発刊された内田春菊の『南くんは恋人』は、人体シュリンクという不思議があっても、どこを切り取ってもリアルな印象を残した。
1987年の『南くんの恋人』は、小さくなった女の子の「ちよみ」が、「南くんの家で飼育状態」になる話だったが、今作の『南くんは恋人』ではその関係が逆転している。この逆転は「南くん」の存在理由を奪ってしまう。
小さくなった「ちよみ」は、小さい境遇を、めそめそ嘆いたりしても、「南くん」に愛玩人形のように扱われる関係自体は、むしろ楽しんでいた。ところが今回、小さくなった「南くん」は愛玩動物扱いに鬱々とするばかり。「ちよみ」は、ポップコーンのかけらを食べている「南くん」(小)をリスみたいでカワイイというが、「南くん」は機嫌が悪くなる。
漫画のはじまりで、小さくなると頭脳以外とりえがない、と勉強熱心な「南くん」に対し、「ちよみ」は「せまい所に落ちたもの拾って持って来れるし」と指摘する。すると「南くん」は、ん?となにやら考えこみはじめる(よくあることらしい)。このときの「南くん」は、実は人類を救うレベルの中二病的妄想をはじめていたのだ。つまりニルス一寸法師症候群というか、サイズを活かした英雄的行動の夢を見はじめる。そんな何かなさねば、とあせる「南くん」と、冷めた目で「男の子って変なの」と世話をする「ちよみ」の関係を描いている。

決定的なのは性的な意味でも、「南くん」は、憂鬱な点だ。前作『南くんの恋人』では、「南くん」が、小さくなった「ちよみ」を、人形みたいに扱って興奮し、漫画も倒錯的エロスな雰囲気だったのに対し、今作は、エロ成分はほとんどない。なにしろ「ちよみ」自身が、小さくなった「南くん」をカワイく思っても、まるでセックスアピールを感じていないようなのだ(「南くん」は、「ちよみ」の留守中、スマフォでエロ画像を見ながら自己処理している)。「ちよみ」の胸の谷間で遊ばせてもらって「南くん」は「巨乳巨乳」と大喜びだが、「ちよみ」は、まさに「┐(´∀`)┌」な表情をする。その点からも「ちよみ」にとって「南くん」は、手間のかかる淫らでうるさい赤ん坊の一種にすぎなくなってしまっている。「ちよみ」の用意した世界に守られ、そこから一歩も出て行くことのできない「南くん」は、どんどん余裕なくなり、嫉妬し、わめきちらし、むくれる。読んでいくうちに書いている作者自身が、「南くん」の取り扱いに困惑し始めたのでは、と感じたほどだ。
前作『南くんの恋人』は、その後いくつか影響を与えた作品を残し、たとえば、その純愛ラブコメ要素は井上和郎『美鳥の日々』なったかもしれないし、あるいは、その変態エロ要素は、宮崎摩耶『ミニマム』になったかもしれない。だが人形サイズになった「恋人」を、こっそり飼育する生活というプリミティブな欲望の「する側」「される側」の「とりかえばや」新展開『南くんは恋人』は、一見単純な発想にみえながら誰も書かず、前作を回収する作品になっている。
それは前作で「南くん」と一緒に、「ちよみ」(小)が崖から転落し、やがて死んでしまう結末への回答まで含んでいるようだ。なぜなら今回も「ちよみ」と「南くん」(小)は、一緒に落ちてしまうからだ。「南くん」は保護者から投げ出され、地面に叩きつけられる。しかし今作の落下では「南くん」は死なない。しかし「ちよみ」の側が、どさくさの中で変化を被るのだった。


内田春菊『南くんは恋人』160p


補記
・昔、スイフトのガリバー旅行記を読んで印象的だったのは、巨人の国にいったガリバーが、巨人(女)の乳房をみるところだ。本来なら羨ましい場面の筈なのに、ガリバーは、その色やブツブツのグロテスクさにびっくりする。そして、イギリスの女が美しく見えるのは彼女と同じサイズの人間だからで、もし虫眼鏡で覗いてみればどんな美顔も凸凹やシミだらけ、といっていた。
今回「南くん」(小)から、じろじろ見られる「ちよみ」は、「お肌のお手入れしっかりしよう!って思うよ」という。そういう前向きな決意ですむ問題なのかしらん、と思いつつ笑ってしまった。ちなみに、今作「ちよみ」は、カワイイというより、美人さん。

・今回、特筆すべきは、やはりリクという「ちよみ」のことが好きにになる男の子の存在だろう。旧作では、「南くん」が、小太りメガネのオタク少年だったが(今作では小さい体で運動量が多くスリム化)、リクは、「◯◯殿」や「◯◯ナリー」といかにもな言葉で話すポジティブな今風のオタクである(しかもクラスの人気もののようだ)。ちよみは脳天気にみえながら、辛辣に周囲を観察しているが、そんな彼女にとっても、リクは好ましい人物に映る(実際、その観察は正しかった)。なお、自分自身は読みながら、このリクが、『オナニーマスター黒沢』に出てくる「長岡」というやはり「◯◯殿」「◯◯ですぞ」と話し、その底抜けの人のよさで、いつの間にか主人公の想い人を奪ってしまう社交的なオタクにオーバーラップした。

2013年9月26日木曜日

『M/Tと森のフシギの物語』解題  なぜ大義も利益もなく、戦うのか

大江健三郎には、恥ずかしい記憶があって、とはいえ大江健三郎には罪科はない。大学の時に部屋に遊びにきた友人が、『万延元年のフットボール』を見て貸してくれ、という。貸してあげた数日後、彼は妙に生暖かい視線で僕を見ながら、「お前のこと心配しちゃったよ。あんまり溜めこむのは良くないぜ」と本を投げてよこした。
なんだろうと思って『万延元年』をパラパラ開くと、「手淫」とか「精液」とか、要するにその手のイカ系単語が出るたびに、なぜか必ず几帳面に鉛筆で二重に丸く囲ってあるのだ。無頓着に貸してしまったが、古本を買ってみれば、前の持ち主の謎の刻印というのが真相。抗弁するのも何か癪で、彼には「ふぇふぇふぇふぇ」と笑っておいた。

早稲田文学6


今月発行の「早稲田文学」の「大江健三郎(ほぼ)全小説解題」で、『M/Tと森のフシギの物語』の解題を書かせて頂きました。この作品は海外(フランス?)で最も売れた大江作品、またノーベル賞獲得にも大きく寄与した作品ともいうが、ぱっと見、ジブリ映画のシナリオ設定といっても違和感なさそうな部分が受け入れやすく思える。
たとえば、江戸時代に追放された若い侍たちが、海賊の女たちと一緒に新天地を求め航海したり、山の奥深くに流れ着いて入り口の岩を爆破したり、開拓した隠れ里で長生きするうちに巨人化したり、「ブーン」という老人にだけ強く作用する謎の不快音に悩まされたり(ブーンといえば「⊂(^ω^)⊃」これか!?)、「壊す人」とか「オシコメ」とか、他の国の神話のような直訳ぽい固有名詞多数。あとこの世界に必要なのは、少年少女の主人公くらいのものだ。

しかし自分が「森のフシギ」を初めて読んだとき、やがて近代に突入して、この村が大日本帝国と戦争を始めたところで躓く。ウィットも何もなくガチで殺しあうのだ。まず初読時は、この村がなんの大義や、あるいは経済的利益があって戦うのかよくわからなかった。
開戦は、新兵器ブルドーザーを使ってダムをつくり、奇襲攻撃で大日本帝国の一中隊を、水攻めで殺してしまう(小説に具体的に人数を書いてないが帝国陸軍の中隊とは、二百人前後)。その後も、前から用意していた狩猟用武器などで森で待ち伏せし、日本兵をネチネチとしていくのだが、なんでこんなに殺さなくてはいけないのか。日本兵が、気の毒で気の毒で、仕方なくなってきた。
しかしこの部分は、一種のサヨク的空気により、大日本帝国に歯向かう側はなんであれ正義というか、そうではなくとも「強きを挫く」的に痛快に読まれてきたのではないかと思う。
小説の語りも、村側に感情移入させるように続いていく。日本軍を偵察していた「木から降りん人」が猿と間違えて射ちおとされ、村人に最初の犠牲者がでて怒りをかきたてられる。しかし先に手を出し、一中隊を壊滅させたのは村の側である(しかも彼は非戦闘員ではない)。さらに村人は戦闘中にも森の消火をする。原生林を大切にし、守る道義的な村人と、森を焼き払おうとする日本軍という構図になる。しかし彼らが、森を大切に思うのはエコロジーな思想というわけでなく、単に森が古くより村の収益源だからである。また本当に森を大切に思うなら、そもそも森を盾にゲリラ戦をしなかったらよい話だ。森を焼かなくてはさらに兵の無駄死を重ねる状況に軍の指揮官を追い込んだら、それは躊躇なく焼かれるに決まっている。戦争なのだから。
とはいえ、大江健三郎は物語を作る側だから、実際に大日本帝国が一方的に邪智暴虐な設定にしても良かったはずだ(村はどう考えても必要最低限の防衛しただけに)。なぜそうしなかった(できなかった)のか。そして、なぜ村は日本軍と戦争をはじめるのか。そこらへんを村の歴史から浮かび上がらせていくような短い試論として、書いてみました。そんなに大げさなものでもないですが、一読いただけたら幸いです。

2013年6月22日土曜日

「女の子を殺さないために」を内田春菊さんにご紹介いただきました

ご紹介いただいたのは、 「BSジャパン 大竹まことの金曜オトナイト」(2013年5月10日放送分)の中の「オトナイト文化情報コーナー あなたの買った本見せて下さい」です。
内田春菊さんによる紹介は、以下のような感じでした(細かい相づち等省略しています)。

内田春菊 これ、あれですよ、「ライ麦畑」のことよくでてきますよ。
大竹まこと 女の子を殺さないために…。
内田 村上春樹さんの小説の中では、なぜ、そのセックスした女の子が死んでしまうのか、というようなポイントから、恋愛小説についての分析を書いた本です。
大竹 そう。村上春樹の最新作の最後は、女の人が死なない、かったなあ。
大竹 あ、いま、過去のやつはね
内田 川端(康成)から、庄司薫から、その恋愛小説の共通点を、分析した、という。
大竹 おもしろそう。
内田 おもしろいです。私の「南くんの恋人」にも触れてくれてて、それで送っていただいたんですけども。
大竹 そうですか。
山口もえ 「南くんの恋人」も春菊さんですか?
内田 そうそうそう。
山口 えー! 思いっきりドラマ見てましたよ。
(敬称略)

ご紹介いただき、ありがとうございます。
なお、大竹まこと氏の「村上春樹の最新作の最後は、女の人が死なない、かったなあ」(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)は、その通りで、たしかに『ノルウェイの森』のように「最後」に女の子が死んでしまうタイプの小説ではありませんでした。しかし、巡礼の過程で、「やはり」というべきか、高校時代の女友達シロが殺されていたことが明らかになります。

なお、内田春菊さんは、ちょうど今年、『南くんは恋人』・・・今度はちよみではなく、南くんの側が手のひらサイズに小さくなってしまう漫画を連載しました。
南くんの恋人 : 25年ぶり復活 新作は“立場逆転”南くんが手のひらサイズに
大変申し訳ないことながら連載は未読につき、夏に出るという単行本を楽しみに読みます。

さて、『色彩を持たない多崎つくる』について少し。本作は、絶交された理由を知るために、死んでしまったシロを除く、アオ・アカ・クロの高校時代の同級生に次々にあっていく小説でした。
この象徴的なアオ・シロ・アカ・クロの四人の同級生のシンボルカラーについて、五行思想的にいうと、「青=東、白=西、赤=南、黒=北」と周縁に対応します。しかも主人公の「多崎つくる」は、四人の同級生の中心にいたという設定です。だから五行思想的には、「多崎つくる」は、「中心=黄土」(イエロー)の役割のはずなのに、なぜか「色彩を持たない」。
とりあえず、庄司薫の赤白黒青四部作(薫くんシリーズ)を喪失した「多崎つくる」が、それを回復していく過程と読んでみることもできそうです。

2012年12月15日土曜日

講義におじゃま

「村上春樹になってはいけない」連載中の助川幸逸郎氏にお招きいただき、横浜市大の「古典文学に学ぶ恋愛の現在」という講義におじゃましてきました。
「女の子が殺される意味の解明」と題して話し始めてみたのですが、なぜ文学や様々なメディアで、女の子は死ぬのか。しかもその作品は人気があるのかというの設問の前提として、つらつら明治以来の名作をあげるではなく、小説の単行本で200万部超の3つしかないレコードホルダーをあげてみました。

小松左京『日本沈没』(1973)    上204万部
                      下181万部
村上春樹『ノルウェイの森』(1987)  上238万部  
                       下211万部
片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)  321万部


こうして整理しながら思いついたのが、『日本沈没』(1973)、『ノルウェイの森』(1987)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)の ダブルミリオン14年周期説。すると次は2015年。今から小説を書いて2015年に発表したら、200万部超狙えるかも??

 さて余談はおいて、『ノルウェイ』と『セカチュウ』はいわずもがなですが、『日本沈没』も主人公の小野寺(深海潜水艇操縦士)中心に読めば、実は、やはり女の子が死ぬ話であり、3つが3つとも女の子が死ぬ話であることを指摘しました。
『日本沈没』内容おさらい  突如、沈んだ島の調査のため、8000メートルの海溝に潜った小野寺は、東京へ帰ると、お嬢様の玲子に引き合わされる。二人は出会ってすぐ、伊豆の別荘のエレベーターを降りて海岸でセックス。その途端、地震がきて、津波から逃げる。その後、小野寺は一年半もの間、暗い深海底にひたすら潜り調査する日々。
やがて小野寺は、玲子と再会するや、またもセックスして婚約、もう調査も終わったし、沈没する日本脱出を決意した。しかし一緒に脱出するため落ち合う直前、玲子は富士山噴火に巻き込まれ死ぬ。
村上春樹の小説へのよくある批判として、「僕」が都合よく女の子とセックスするというのがあります。ところが、たとえば小松左京の場合も、男女があってすぐセックスしてしまう(『首都消失』もそう)。ちなみに、この『日本沈没』の玲子は、あとで、誰とでも会ってすぐセックスする女じゃないと自己弁明し、小野寺に深い海の底を感じてセックスしてしまったとか。

ポーの詩論「死、とりわけ美女の死は疑いようもなく世界で最も詩的なテーマである」という言葉の意味について助川氏としつつ、女の子の下降を論じた弊著との関係を語りました。そして最後の締めくくりは、古今のアニメの落っこちる女の子のシーンをいろいろ上映しました。
『超時空要塞マクロス』第2話19分あたり(1982 MBS、タツノコプロ、アニメフレンド、スタジオぬえ)

古いところでは、『超時空要塞マクロス』のリン・ミンメイがふわふわ落っこちて、それをバルキリーで追いかけた一条くんが、コクピットに救い入れるいかにも無理やりな女の子の下降シーンとか。同じ年の『ナウシカ』の腐海の底にナウシカが落ちるところとか。
『神様はじめました』第7話11分あたり(2012 神様はじめました製作委員会)

今放映中のものだと、『神様はじめました』。やっぱりなぜか危なっかしげなビルのうえで振られた奈々生が落っこちていって、狐耳男に救われるところ。貴志祐介原作の『新世界より』のエンディングでは、船で花火や幻想をみていた早季がいきなり天地が逆転(?)して落っこちる(傑作)などなど(原作にはそんなシーンなし)。
次は映画で、小津の「風の中の牝雛」の階段から突き落とされる田中絹代なんかも、と思いつつ、刺激的で楽しい機会をご用意くださいました助川氏と横浜市立大学の皆様ありがとうございました。

2012年9月17日月曜日

元祖・人類は衰退しました

いま「人類は衰退しました」が、アニメ放送中だが、そこで初めて原作の田中ロミオ氏の小説のキャラクターデザインが、いつの間にか、がらりと変更になっているのに気づいた。

それはそうと、それこそ最初の「人類は衰退しました」のSFはなんだろう、と考えていくと、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」(1895)が思い浮かぶ。
時間旅行者は、はるか未来、ピンク色の小型化した人類たちを発見する。どうやら争いも諍いもなくなった分だけ、知性も体格も退化してしまったようなのだ。

さて、時間旅行者は、偶然、川で流されていた未来人の女のウィーナを助ける。そして庇護欲を掻き立てられるが、この未来世界では、凶暴な地底人が、井戸から這い出し、地上の人間を捕食にくる。現代に連れ帰ろうと逃げまわるが、結局、もみくちゃにされて気づいたら、女は、もう地底人にさらわれていた(たぶん食べられた)、というあらすじ。
この未来人の女が主人公のポケットを、一風変わった花瓶と思い込んで、いつも花を入れてくるエピソードがある。これが最後まで伏線として生きて、いちいち、感情を刺激する。
坂口安吾は、『文学のふるさと』で、伊勢物語で駆け落ち中の男女が、家にたてこもったが、朝になったら女がもう鬼に喰われてしまっていた話を取り上げ、こんなことを言っている。

暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走ろうとして返事すらできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。(『文学のふるさと』)

要するに、「タイム・マシン」は、時間旅行機械が初登場のSF史的な意味のある小説だが、同時に、このポケットの花瓶のエピソードによって、「草の葉の露をみて女があれは何」と同じ効果を発揮する。女の子が死ぬ話としても、読者を突き放すべく計算されている。
しかし、よくよく考えてみれば、これは折角のタイム・マシンものである。この旅行者は、女が死んだら、その未来が確定する前に戻って、過去の自分に忠告するなり、入れ替わってやり直せば、よかったのではないかとも思う(まだ当時の人には、そういう発想はなかったのかも)

2012年9月13日木曜日

「村上春樹になってはいけない」という連載の感想

プレジデントオンラインは、見たら分かるが、「なぜお金持ちは缶コーヒーを飲まないのか?」とか「なぜ行列に並ぶ人は、お金持ちになれないのか?」「お金持ちが結婚に求める5つの条件」とか今時、こんなガツガツしていいのかと、むしろ清々しいばかりのサイトである。

そんなサイトで、助川幸逸郎氏は、「村上春樹になってはいけない」という、隔週で全一二回の連載をやっている(原稿用紙にすると最終的に200枚以上になる)。直接的な利益を強調した記事だらけの空間に、ポツンと普通に村上春樹論、その図々しさが素晴らしい。これは、どうでもよくみえて、画期的なことだと思う。
内容として、村上春樹は、バブル的に消費されたように見えながら、実はバブル以降に通用する要素こそが、本質だった的な話が毎回のざっくりしたパ ターンである。つまり、「なってはいけない」の変な題名も、バブルの夢にいまだまどろむ読者への否定と同時に、可能性の肯定として、向けられているわけだ。その発表場所を利用した、企みもまた面白い(まだ連載折り返し地点なので、詳しいコメントはしない)

2012年7月12日木曜日

庄司薫の文学 〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い

東京中日新聞に記載した庄司薫論です

庄司薫の文学

〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い  川田宇一郎


 かわいい女の子たちからモテモテ、頭も良くて、有名ブランド高校にいて、頼れる友達もいて、しかも健康で深刻な悩みもなく、家はお金持ち。こんな奴は、今時の言葉でいうと「リア充」(実生活が充実していること)である。
  一九六九年の芥川賞受賞作の庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(以下、『赤』)の内容はまさにそれ。主人公の「薫くん」は、学校群導入以前の最後の日比谷高生であり、東大に苦もなく受かって当然の「お行儀のいい優等生」だが、学生運動激化による東大入試中止にぶつかってしまう。最後に東大以外に行くをよしとせず「ぼくは大学へ行くのやめたんだ」と、幼なじみの「由美」に報告し、二人は手をつないで歩き、終わる。

  だから、このミリオンセラー作品は、多くの読者に受け入れられながらも、本当は少数の学歴エリートに向けられた「男の子いかに生くべきか」の教養論と語られもするほどだ。今年の三月から新潮文庫で刊行のはじまった『赤』の解説(筆者・苅部直)でも、まず「知性のための戦い」がテーマとされる。
  実際に「優等生」の読者にとっては、直接的メッセージだし、もちろん一つの見方である。しかし、それ以外の読者は、それこそやわらかな青春の心情や、饒舌な文体の面白みに惹きつけられただけなのだろうか。庄司薫は、今回の新潮文庫化に際して、新しく「あわや半世紀のあとがき」を付しているのだが、そこにもう一つの作品のコンセプトがあると思った。
今年めでたくも七五歳になった庄司薫は、こんな昔話を紹介する。安部公房が一杯やりながら、「あのオシマイのとこ、歩きながらそっと手を差し出して、指先が触れるみたいなとこ」をあげて、「オレタッチャッタ」と語った、と。さらに実は、庄司薫自身もその部分を書きながら、同じ状態になったと告白する。なるほど最後に「由美」と手をつなぐ、ただそれだけの接触が、具体的な「薫くん」の行動として、むしろ強烈にエロチックになる。なぜならこの小説は、「薫くん」が「リア充爆死しろ」と言わんばかり、おいしい目にあいながらも、それを最後まで貯めこみ続けるからだ。
  たとえば「薫くん」は、病院にいけば、家に何度か遊びに来てた「すごい美人」な女医が、白衣の下は何もつけず診察に登場する。そして裸の乳房やそのほかもろもろを見てしまい大興奮。それなのに彼女を膝の上で休ませ、「好きです、あなたが」と告白までして逃げ出してしまう。そして困ったふうに饒舌をはじめる。〈ぼくは、平たく言えば「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がする(略)〉。好きな女の子とは、セックスしない関係のほうがしあわせ、という不思議をめぐって展開する饒舌なのだ。

九〇年代末あたりから流行しはじめる「ハーレムもの」といわれるサエない男の子が、数多くの女性からモテモテになる漫画や軽小説の類型がある。とはいえ、大奥のように子作りし放題を想像すると大違い。だいたい奥手な主人公(草食系?)が、おいしい目にあいそうになると、別のヒロインが乱入したり、お互いに邪魔しあって、結局、誰一人として、深い関係になれない状態を引き伸ばす。
  一方「薫くん」の出てくるシリーズは、『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』と七〇年代まで書き継がれているが、「薫くん」は、誰かの邪魔でもなく自分の意志で、この赤白黒青四部作を通じてずっと童貞のままだ。
『赤』の後に続く『白』では「由美」が服を一枚づつ脱ぎながら迫ってくるのに、なんとただ抱きしめ「好きなんだ」と繰り返すのみ。『青』では、ある少女に「あたしを抱きたいからこそ絶対に触らないとか、そういうの……?」と問いかけられる。
現在、「ハーレムもの」的なモテモテ主人公が振り回され、やれそうでやれないラブコメが大繁殖している。読者は何かその手のはなしから気持ちよさを感じるともいえるが、その中で「あわや半世紀」たっても庄司薫が新鮮に読まれ続ける理由は、明確に自分から回避する、やれるのにやらない「ぼく」なこと…「好きな女の子とは、セックスしないほうが幸福なんだ、という説明しにくい言葉見つける戦い」だからではないか。

東京新聞・中日新聞2012年5月24日夕刊記載を、ブログへ転載したものです)

補記
① 「ハーレムもの」の起源については、諸説あるとおもう。80年代末からはじまり、今も連載中の藤島康介『ああっ女神さまっ』でもよいのだが、そうしたジャンルの一般認識と普及を赤松健『ラブひな』(1998-2001)あたりと自分が考えただけである。
理由は、作者・赤松自身が語る「出発点にギャルゲーがあります。 いろんなキャラの女の子に主人公がもてるといった(笑)」(東京大学新聞1999年3月10日号)という、ゲームによって生まれた意識的な多ヒロイン感覚のコンセプトがある。
なお、一応、恋愛シミュレーション系のゲームでは、ほとんど「ラブコメ」状態にはならない。数あるヒロインの中から、攻略するヒロインごとに一途に交際するからだ。18禁ならセックスもするし、進行すればするほど他のヒロインはでてこなくなる。しかし基本的にシナリオ分岐がない漫画やラノベ世界において、バランスよく同時並行的にすると、それは当然ラブコメ状態でしか実現できない。つまり「ギャルゲー」を一本道で実現したい欲望が「ハーレムもの」的ラブコメを生んだともいえる。
②新潮文庫化のたいしたことない考察については過去記事参照。