なんだろうと思って『万延元年』をパラパラ開くと、「手淫」とか「精液」とか、要するにその手のイカ系単語が出るたびに、なぜか必ず几帳面に鉛筆で二重に丸く囲ってあるのだ。無頓着に貸してしまったが、古本を買ってみれば、前の持ち主の謎の刻印というのが真相。抗弁するのも何か癪で、彼には「ふぇふぇふぇふぇ」と笑っておいた。
早稲田文学6 |
今月発行の「早稲田文学」の「大江健三郎(ほぼ)全小説解題」で、『M/Tと森のフシギの物語』の解題を書かせて頂きました。この作品は海外(フランス?)で最も売れた大江作品、またノーベル賞獲得にも大きく寄与した作品ともいうが、ぱっと見、ジブリ映画のシナリオ設定といっても違和感なさそうな部分が受け入れやすく思える。
たとえば、江戸時代に追放された若い侍たちが、海賊の女たちと一緒に新天地を求め航海したり、山の奥深くに流れ着いて入り口の岩を爆破したり、開拓した隠れ里で長生きするうちに巨人化したり、「ブーン」という老人にだけ強く作用する謎の不快音に悩まされたり(ブーンといえば「⊂(^ω^)⊃」これか!?)、「壊す人」とか「オシコメ」とか、他の国の神話のような直訳ぽい固有名詞多数。あとこの世界に必要なのは、少年少女の主人公くらいのものだ。
しかし自分が「森のフシギ」を初めて読んだとき、やがて近代に突入して、この村が大日本帝国と戦争を始めたところで躓く。ウィットも何もなくガチで殺しあうのだ。まず初読時は、この村がなんの大義や、あるいは経済的利益があって戦うのかよくわからなかった。
開戦は、新兵器ブルドーザーを使ってダムをつくり、奇襲攻撃で大日本帝国の一中隊を、水攻めで殺してしまう(小説に具体的に人数を書いてないが帝国陸軍の中隊とは、二百人前後)。その後も、前から用意していた狩猟用武器などで森で待ち伏せし、日本兵をネチネチとしていくのだが、なんでこんなに殺さなくてはいけないのか。日本兵が、気の毒で気の毒で、仕方なくなってきた。
しかしこの部分は、一種のサヨク的空気により、大日本帝国に歯向かう側はなんであれ正義というか、そうではなくとも「強きを挫く」的に痛快に読まれてきたのではないかと思う。
小説の語りも、村側に感情移入させるように続いていく。日本軍を偵察していた「木から降りん人」が猿と間違えて射ちおとされ、村人に最初の犠牲者がでて怒りをかきたてられる。しかし先に手を出し、一中隊を壊滅させたのは村の側である(しかも彼は非戦闘員ではない)。さらに村人は戦闘中にも森の消火をする。原生林を大切にし、守る道義的な村人と、森を焼き払おうとする日本軍という構図になる。しかし彼らが、森を大切に思うのはエコロジーな思想というわけでなく、単に森が古くより村の収益源だからである。また本当に森を大切に思うなら、そもそも森を盾にゲリラ戦をしなかったらよい話だ。森を焼かなくてはさらに兵の無駄死を重ねる状況に軍の指揮官を追い込んだら、それは躊躇なく焼かれるに決まっている。戦争なのだから。
とはいえ、大江健三郎は物語を作る側だから、実際に大日本帝国が一方的に邪智暴虐な設定にしても良かったはずだ(村はどう考えても必要最低限の防衛しただけに)。なぜそうしなかった(できなかった)のか。そして、なぜ村は日本軍と戦争をはじめるのか。そこらへんを村の歴史から浮かび上がらせていくような短い試論として、書いてみました。そんなに大げさなものでもないですが、一読いただけたら幸いです。