2012年7月12日木曜日

庄司薫の文学 〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い

東京中日新聞に記載した庄司薫論です

庄司薫の文学

〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い  川田宇一郎


 かわいい女の子たちからモテモテ、頭も良くて、有名ブランド高校にいて、頼れる友達もいて、しかも健康で深刻な悩みもなく、家はお金持ち。こんな奴は、今時の言葉でいうと「リア充」(実生活が充実していること)である。
  一九六九年の芥川賞受賞作の庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(以下、『赤』)の内容はまさにそれ。主人公の「薫くん」は、学校群導入以前の最後の日比谷高生であり、東大に苦もなく受かって当然の「お行儀のいい優等生」だが、学生運動激化による東大入試中止にぶつかってしまう。最後に東大以外に行くをよしとせず「ぼくは大学へ行くのやめたんだ」と、幼なじみの「由美」に報告し、二人は手をつないで歩き、終わる。

  だから、このミリオンセラー作品は、多くの読者に受け入れられながらも、本当は少数の学歴エリートに向けられた「男の子いかに生くべきか」の教養論と語られもするほどだ。今年の三月から新潮文庫で刊行のはじまった『赤』の解説(筆者・苅部直)でも、まず「知性のための戦い」がテーマとされる。
  実際に「優等生」の読者にとっては、直接的メッセージだし、もちろん一つの見方である。しかし、それ以外の読者は、それこそやわらかな青春の心情や、饒舌な文体の面白みに惹きつけられただけなのだろうか。庄司薫は、今回の新潮文庫化に際して、新しく「あわや半世紀のあとがき」を付しているのだが、そこにもう一つの作品のコンセプトがあると思った。
今年めでたくも七五歳になった庄司薫は、こんな昔話を紹介する。安部公房が一杯やりながら、「あのオシマイのとこ、歩きながらそっと手を差し出して、指先が触れるみたいなとこ」をあげて、「オレタッチャッタ」と語った、と。さらに実は、庄司薫自身もその部分を書きながら、同じ状態になったと告白する。なるほど最後に「由美」と手をつなぐ、ただそれだけの接触が、具体的な「薫くん」の行動として、むしろ強烈にエロチックになる。なぜならこの小説は、「薫くん」が「リア充爆死しろ」と言わんばかり、おいしい目にあいながらも、それを最後まで貯めこみ続けるからだ。
  たとえば「薫くん」は、病院にいけば、家に何度か遊びに来てた「すごい美人」な女医が、白衣の下は何もつけず診察に登場する。そして裸の乳房やそのほかもろもろを見てしまい大興奮。それなのに彼女を膝の上で休ませ、「好きです、あなたが」と告白までして逃げ出してしまう。そして困ったふうに饒舌をはじめる。〈ぼくは、平たく言えば「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がする(略)〉。好きな女の子とは、セックスしない関係のほうがしあわせ、という不思議をめぐって展開する饒舌なのだ。

九〇年代末あたりから流行しはじめる「ハーレムもの」といわれるサエない男の子が、数多くの女性からモテモテになる漫画や軽小説の類型がある。とはいえ、大奥のように子作りし放題を想像すると大違い。だいたい奥手な主人公(草食系?)が、おいしい目にあいそうになると、別のヒロインが乱入したり、お互いに邪魔しあって、結局、誰一人として、深い関係になれない状態を引き伸ばす。
  一方「薫くん」の出てくるシリーズは、『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』と七〇年代まで書き継がれているが、「薫くん」は、誰かの邪魔でもなく自分の意志で、この赤白黒青四部作を通じてずっと童貞のままだ。
『赤』の後に続く『白』では「由美」が服を一枚づつ脱ぎながら迫ってくるのに、なんとただ抱きしめ「好きなんだ」と繰り返すのみ。『青』では、ある少女に「あたしを抱きたいからこそ絶対に触らないとか、そういうの……?」と問いかけられる。
現在、「ハーレムもの」的なモテモテ主人公が振り回され、やれそうでやれないラブコメが大繁殖している。読者は何かその手のはなしから気持ちよさを感じるともいえるが、その中で「あわや半世紀」たっても庄司薫が新鮮に読まれ続ける理由は、明確に自分から回避する、やれるのにやらない「ぼく」なこと…「好きな女の子とは、セックスしないほうが幸福なんだ、という説明しにくい言葉見つける戦い」だからではないか。

東京新聞・中日新聞2012年5月24日夕刊記載を、ブログへ転載したものです)

補記
① 「ハーレムもの」の起源については、諸説あるとおもう。80年代末からはじまり、今も連載中の藤島康介『ああっ女神さまっ』でもよいのだが、そうしたジャンルの一般認識と普及を赤松健『ラブひな』(1998-2001)あたりと自分が考えただけである。
理由は、作者・赤松自身が語る「出発点にギャルゲーがあります。 いろんなキャラの女の子に主人公がもてるといった(笑)」(東京大学新聞1999年3月10日号)という、ゲームによって生まれた意識的な多ヒロイン感覚のコンセプトがある。
なお、一応、恋愛シミュレーション系のゲームでは、ほとんど「ラブコメ」状態にはならない。数あるヒロインの中から、攻略するヒロインごとに一途に交際するからだ。18禁ならセックスもするし、進行すればするほど他のヒロインはでてこなくなる。しかし基本的にシナリオ分岐がない漫画やラノベ世界において、バランスよく同時並行的にすると、それは当然ラブコメ状態でしか実現できない。つまり「ギャルゲー」を一本道で実現したい欲望が「ハーレムもの」的ラブコメを生んだともいえる。
②新潮文庫化のたいしたことない考察については過去記事参照。