はっとりみつる『さんかれあ』(講談社) |
つい先ごろまで放送していた『さんかれあ』とは、ゾンビっ娘萌えの少年が、「これからも私のカラダ大切に扱って下さいね」という、美少女ゾンビを自宅に同居させるラブコメだった。一応、全話(12話)放送終わったので、感想を書いてみる。
なお、ゾンビの出てくる(出てこないのも)映画、小説、漫画への重大なネタバレ要素が盛りだくさんなので、ご注意ください。
『さんかれあ』のアニメの予告を見た段階で、自分の関心分野(女の子が死ぬ話)にも重なるし、面白そうに思ったので、まず、はっとりみつるの原作漫画を5巻まで読んでみた。
すぐ気づいたのが、高原英理の小説『グレー・グレー』(『抒情的恐怖群』所収)に、諸設定と生み出す不思議な空気が、似ていることである。おそらく偶然、似たのだと思う(この件は、高原英理氏にもお伝えした)。類似点を示した上で、では、なぜ、そっくりになったか少し考えてみる。
『グレー・グレー』(高原英理 2008年初出)
まず『グレー・グレー』の内容を、簡単にご紹介。この短編小説では、死んだはずの和花という女が、なぜか生前の記憶を保ち続けるゾンビになってしまう。
一方、その恋人とおぼしき「自分」が、本来なら、死後すぐ腐敗のはじまる彼女の死体を、エンバーミングを施し(血液を抜き、その代わりに防腐剤を入れ)、なるべく長持ちするように、面倒を見る。
だから和花は、ゾンビとして、生きる時間を引き伸ばされる(厳密にはブードゥーのように術者に操られているわけでもないので、定義のゆるいリヴィングデッドと呼ぶべきだけど)。
この小説の書き出だしは、異常な雰囲気のコンビニへ訪れるところから始まるのだが、それも和花の体が傷まないように、ドライアイスを買うためだ。和花は、たまの夜中の散歩程度で、いつもは冷房のきいた部屋に閉じこもっている。そして「自分」が様子見に訪れる。
それでも彼女は死後、すでに「一年と二か月」たっているのだが、肉体や記憶のゆるやかな崩壊は避けらない。
ポイントは、このゾンビとの生活が、さほどおぞましくもみえないこと。なにしろ和花は生前の性格設定が「天然」にされ、この悲劇的な状況に深刻ぶることもなく、呑気なコミュニケーションの時間が流れるのだ。例えば、ゾンビの和花は、こんなふうに語る。
って、もう死、んだかと、思ったよ、あ、死ん、だんだ、けどさ哀しみを強調するレトリックではなく、ここは単純に笑いどころのようだ。
そして、もう一つ注目なのが、和花の死因。
事故で九階から落ちて、左肩、大腿骨、首、右肘、肋骨骨折、こんなところだった。要するに、高いところから落ちて死んだ。
『さんかれあ』(原作はっとりみつる 2010年連載開始)
次に『さんかれあ』(原作漫画)の内容。主人公の千紘は、小さいころからゾンビが大好きな少年。それもホラーとして愛好するのではなく、ゾンビっ娘萌えのあまり、生きた女には興味がないという困った意味で。
千紘は、夜になると廃墟ホテルで、事故死した愛猫を蘇らそうとゾンビの秘薬の実験を重ねる(アニメでは廃墟ボーリング場)。
そんな中、お嬢様の礼弥が、古井戸に向かって、「自由に外出させて」など不満をぶちまけている現場を目撃する。しかも、誕生日になると成長記録として、父親に裸写真を撮影されている告白までしたところで、覗き見てたことを礼弥に気づかれてしまう。それが二人の出会い。
礼弥は、夜な夜な千紘の実験を手伝いにくる形で密会を繰り返すが、やがて父親に発覚し、自殺しようと実験中のゾンビ薬を飲む。しかし死ねず、家から逃げ出したところ、父親にみつかり、わざわざ危なっかしい崖の小道でもみ合う。そして、父の振るった鞭を避けようと、数十メートルもあるような崖から転落死してしまう。
落下を目撃した千紘が駆け寄ると、あじさいの中に囲まれた礼弥はゾンビとなって起き上がり、「約束…どおり(引用者注;死んだので。アニメだとゾンビになったので)責任取って…下さいね」という。
ゾンビの礼弥は千紘の家に居候する。礼弥にとっては、もう人間でなくなったので、過保護な父から開放され、逆に「普通の女の子として」暮らすことができる幸せな時間でもある。
千紘にとっても憧れであったゾンビっ娘との共同生活が始まった…。
とはいえ礼弥の体が、死んだ人間の肉体と一緒で放っておくと腐ってしまい(脈もないので血液も循環していない)、1か月足らずで白骨化するだろうし、なんとかしないと、と考える。死体保存方法を研究し、ドライアイスを買ってきたりするが、もちろん進行を遅らせるだけで、根本的な解決方法は未だみつからない。
そんな中、礼弥は「なんかズレてる」(3巻)とまでいわれるほどゾンビなのにポジティブで天然な性格だ。ぱっくり割れた自分のお腹を得意の裁縫で縫い合わせ楽しそうだったり、ドライアイス収納ポット付きコートをつくって得意げに学校にも通うし、とれてしまった自分の腕に「これお裁縫でくっつけられるのかな」と考えたりする。
4つの共通点
もしくは4つのセールスポイント。以下のとおり。- 吸血鬼や幽霊のようなすでにロマンチックに描かれてきた怪奇対象とは違い、従来なら、恋愛が成立しがたいように思える、腐っていく死体ゾンビとの関係を書いている。
- ヒロインの死因は、さほどストーリー上の必要性もなく、高いところからの落下。
- ゾンビ化したヒロインの腐敗が進まないように、防腐処理等、八方手を尽くすのが、男の子の役割であり、それが二人の親密な関係の基本となる。
- ヒロインの性格が異様に天然で深刻さがなく、このゾンビとの生活を別に悪くないものとして書いている。具体的にはラブコメ的(後述)である。
恋愛が成立しがたいのは、そもそもゾンビの恐怖は、圧倒的な数の暴力で無統制に襲いきて、伝染し、個がないのが特徴だったこと(G.A.ロメロの第一作より)。
次に端的に腐ってるものは、絵的に美しくないからだろう。
もちろんそういうイタイものこそ、今では萌え化の対象になりやすい。だからゾンビ少女がでてくるものも流行していて、結構ある(その名も池端亮の『あるゾンビ少女の災難』など…アニメ化決定!)。また今では「恋人はヴァンパイア」「恋人はゴースト」系はうんざりな感じなので、意外性なら「恋人はゾンビ」や、たとえば「恋人はミイラ」くらいやらないとダメそうだ。
世界一短いゾンビの恋愛史
しかし一応、ゾンビとの恋愛ものでソートしてみよう。まず、たぶん、はじめてのゾンビ恋愛作品として、ブライアン・ユズナ監督の『バタリアン3』(1993年)がある。
バイク事故で死んでしまった女を、その恋人の男が、ゾンビ研究している軍の施設に連れ込んでゾンビにする話。ゾンビになって蘇った女は、すぐに食人衝動が抑えられなくなり、その恋人以外を襲い、周囲に大迷惑をかけ、結局軍に回収してもらう。そこで実験材料にされてるのを見かねた男は、女と一緒に焼却炉へ飛び込むという終わり方。
『バタリアン3』では、復活させる手段として意図的にゾンビ化するのだし、そもそもすぐ食人衝動がおさえらなくなって、一緒に過ごす時間は、まるで得られない。いろんな意味で見ると落ち込む映画である。
ラノベの伊東ちはや『妹がゾンビなんですけど!』( 2011)もこの系統で、交通事故で即死してしまった妹を、兄はゾンビにしてもらう。しかし食人衝動がやはり抑えられず、大好きな兄を食べてしまおうとする。これは妹が、他人の体を食べるのではなく、自分の腕などを食べることで解決し(すぐ新しく再生する)、そして二巻へ続く。
『妹がゾンビなんですけど!』は、別に腐っていくのが避けられない死体ではなく、常人より活発。事故で崩れたはずの顔も再生してしまう(むしろ不老不死の真祖的だ。ヴァンパイアだと目新しくないので、ゾンビといっているだけのような気も少しする。木村心一『これはゾンビですか?』も同じく再生能力をもつゾンビなので、ラブコメだが省略)。
少し毛色がかわったものに漫画『水野純子のシンデラーラちゃん』(2000)がある。こちらは男女逆で、ゾンビの王子様に、生きている女の子が恋をして、自分も、結婚するためにゾンビになる話。ここでは、腐ってるカラダが、可愛く書かれているのが特徴(『さんかれあ』に『グレー・グレー』はまだ腐ってないカラダ)。
要するにゾンビとの恋愛ものは少ないとはいえ、皆無ではないのだが、『さんかれあ』のように、ある一定期間、本来は腐っていく恋人の死体を腐らないように遅延させながら、静かな時間を過ごすコンセプトは、他に『グレー・グレー』だけのようだ。
ゾンビの機能は実は単純かも?
なお、生前の意識もうしなった真性ゾンビとの恋愛ものは私は知らない。あってもいいと思うが、本来の一般イメージの(つまりロメロ的な)ゾンビ…「生ける屍」というか、「ふらふら動く屍」は、生きた人間を食べようとするだけで、犬猫より、知性や情愛がなさそうである(すきあらば飼い主を捕食しようとするペットのワニ程度?)。そのままでは恋愛対象になりえず、何かひと工夫が必要だろう。
ロメロ作品のリヴィングデッドには、生前の無意識習慣を反復する要素はあっても、それは肉体という物質に蓄積した記憶的なもの(記憶する心臓、最近だと卜部のヨダレ?)であって、脳で統合された意識とは云い難い。
つまり、ここで、恋愛対象になるゾンビの機能は単純なのだ。ゾンビといっても、あくまで当事者たちや、その作品の中の社会が、「死んだ」と認定しているからゾンビなだけ。しかし心臓も、免疫活動も停止、腐ってきても、生前と同じ意識があって、個性の連続性が認められたら、実際には、なかなか死んだとは云い難いように思う。
むしろ肉体が健康でなんの問題がなくとも、意識がゾンビになっているほうが、ずっと個体として死んでるし、喪失感も感じるのではないか。
礼弥も、真のゾンビへの移行中だからこそ、生前の意識も保持し、進行が進むまで食人衝動もあまり起きない。つまり、『さんかれあ』的な生前の意識と連続するゾンビは、ゾンビのよいところ取りなのである。一度死んだものを、もう一度、留保的に蘇らすために、利用されている。
そしてもうひとつはタイムリミットの導入だ。
「いつまでこの状態でいられるかもわかりません。そんなに時間はないんです。体も傷んできてますし。」
「私もう死んでますけど。」(アニメ『さんかれあ』第十二話より)
意識があるまま
痛みも…感じないまま
徐々に…
確実に…
腐敗してゆくということ-
(漫画『さんかれあ』4巻 特別読み切り 「吾輩も…ゾンビである…」)
ゾンビの利用で、生き返る、と同時に、本当は生き返っていない仕組みが生まれる。あくまで死んだ女の子を、しかしもう一度(つまり二度)、今度は完全に死なすための猶予期間なのだ。
もしこれがゾンビではない死んだものなら? ヴァンパイアは一応、不老不死だし、幽霊は損なわれる肉体をそもそも持たないので、こうした時限爆弾を抱えていない(それでもドラマ上、適当に制約は追加されるが)。
もう一度殺す仕組み
東野圭吾『秘密』(文藝春秋) |
ここは、多くはとりあげないが、たとえば、東野圭吾の人気小説『秘密』(1998)なんてどうだろうか。
この小説では、妻の直子と小学五年の娘を乗せたバスが事故で、崖から転落してしまう。
かけつけた夫は、妻を看取り、下降した感覚を得る。
急速に熱を失っていく直子の手を握ったまま、平介は床にうずくまっていた。自分が深い井戸の底にいるような気がした。(『秘密』)しかしここでも、一度死んだはずの直子の意識は生き返る。
それは奇跡的に命をとりとめた娘の体には、何故か死んだはずの妻の意識が宿っていた…という形で。
そのあとは、娘の体は、中学生、高校生と成長する。しかも愛妻が本当は生きているので再婚もできず、妻も性欲処理してやろうとするが、やはりカラダは実の娘なので、そんなことできず、同じ屋根の下で眠りながらも、悶々とした夜……(広末涼子主演の映画版だとよりラブコメ的に改変)。
しかしこの生き返った妻にもタイムリミットが設定されている。一応、妻が話すには、娘の意識が復活するようになり、その時間が増え、自分の意識がでてくる時間が短くなっている、と。そして完全に娘に入れ替わる日がくる(つまり、ここで妻の意識は死んだ)。
そして娘の意識の復活は、本当は妻の創作と演技であるらしくも、匂わされている(解釈いろいろ)。妻の意識が若い肉体に入ったことは、精神自体も変調を免れず(若きファウスト博士のように)、もはや元の妻の精神でも、もちろん娘の精神でもない、第三の精神になってしまう(一種のゾンビ化)。
そして他の若い男に嫁いで、去っていき、残された夫の喪失感のうちに作品は終わる。
つまり、死んでしまった(落ちてしまった)女を、しかしすぐに死ぬことを許さず、娘の肉体を用いて、一度復活させる。
しかしその再生した時間は、緩やかな、しかし確実なタイムリミットがあり、なるべく長引かせようと男は努力するが、いつまでも続くものではない。そして、ある一定期間、死を熟成させ、二度目に今度は完全に死なせる(消滅させる)。
こうした話が、ゾンビ的想像力と親和性が高く、『グレー・グレー』と『さんかれあ』の間のゾンビのよいところ取り諸設定の類似を生んだのではないか、というのが私の考えである。
ちなみに『さんかれあ』は原作も未完であるので今後、礼弥がナチスの超科学とかで、完全治癒する可能性もあるし、また、『グレー・グレー』の結末は省略するが、こちらも和花がもはやゾンビとしても活動停止(腐って溶けて黒い液体になるとか)するところまでは描かれていない。
下降とラブコメについて
アニメ「さんかれあ」OPより (C)はっとりみつる・講談社/さんかれあ製作委員会 |
死んでるのに生きかえさせられる女の死因が、落下であること。これを『秘密』、『グレー・グレー』、『さんかれあ』の間の共通点として特記した。それは、物語が女の子を殺そうとするのはなぜか、その理由に深く関わる、と私は考えているためだ。いずれコンパクトにまとめたいとは思うが、弊著『女の子を殺さないために』で詳しく論じたので今回は説明を省略する。
なお、女の子の下降が少なくとも製作者側にとっても、どうやらキャッチーと認識されていることは、アニメ『さんかれあ』のオープニングで毎回流れたシーンからも明らかである。
オープニングの最初では、礼弥が黒い大きな布を、ずりずり引きずりながら歩いてきて、その布の上にたち、あじさいの葉っぱをひとかじりして、その黒い布の中へと落ちていく(するすると吸い込まれていく)。これは彼女がゾンビになること=下降のシーンの象徴的再現なのだろう。
またラブコメ的という言葉を特に定義せずに使ったが、これも前掲書で論じた(女の子を殺さない仕組みとして)。基本的にラブコメでは、ラブラブな二人が、たとえば同居するなどして、いつでもすぐにセックスできそうにみえるのだが、必ず、なにか邪魔がはいる。そして、いつまでも深い関係になれない状態を引き伸ばす。それがパターン化すると、もはやコメディ化してしまう。つまりセックスできそうで、できない気持ちよさから動いている。これが私の定義である。
『さんかれあ』は典型的なラブコメと考える。それは、モテモテの主人公にアプローチするのは、ヒロインの礼弥だけではないからだ。その他に、胸が巨大で性的魅力全開の幼なじみの蘭子がいて、やはり彼女も主人公が大好きで、礼弥と蘭子が、お互いがお互いを邪魔ないし、遠慮しあって、関係が深まるのを阻止する(要するに、三角関係…漫画ではさらにゾンビ研究家の少女が追加される。祭りにデートに行っても、女の子3人)
そもそも主人公は、礼弥のカラダを大切にしなくてはならないので、無理な力や負担かかることはしなそうだが。
『グレー・グレー』の場合は、セックスというか、性交渉のできない関係が、もっと具体的でわかりやすい。ちょっとグロいが、次のように書かれる。
まだ死んで間もない頃、大丈夫やれるよ、と和花が言うから、入れようとしてみたが、そこも縫い閉じてあって、入らなかった。体孔の縫い目を切るとそこから腐りますよ、と葬儀社の人は言っていたので、性器と肛門を開くことはできないとわかった。口も大きくは開かない。だから和花は、次のように「自分」に問いかけたりもしている。
それ、よか、セックス、できない、の、残念?
高原英理『抒情的恐怖群』 (毎日新聞社) |
このように『さんかれあ』を読んだ人は、高原英理『グレー・グレー』もあわせて読むと いろいろ面白い、と思う。ゾンビの設定も高原の場合は、世界同時発生的な、なぜか死者が生前の人格のまま甦る(とはいえ大抵、生者を恨み凶暴化する)世界を書いている。 血を抜いて防腐剤をつめることを和花が興奮しながら報告したり、やはり生者と違うゾンビ独特の感覚を語ったりする。なぜ題名が「グレー・グレー」なのか、それもわかるかも。『抒情的恐怖群』という単行本に所収されている。
補記
『さんかれあ』は、コミカルな原作とくらべ(コミックだからコミカルとは限らない)、アニメ版のほうがねちっこく、エロい。
たとえば、ヒロインが古井戸に向かって叫ぶ、誕生日のたびの父による裸撮影の強要の扱い方。漫画では、主人公はそれをきいて、ジュースを噴きだすだけで扱いが軽い(ダリオ・アルジェント監督が『鮮血の叫び』で、娘アーシアの裸を撮影するエピソードを聞くような…)。
ところがアニメでは、誕生日に撮影された写真と、成長とともに年々、つらく嫌そうになる(でも断れない)ヒロインの様子が克明に映像化される。
そのせいか、アニメでは11話に礼弥の父親と主人公の対決部分(フェンシング)を、もってきて、わかりやすく終わった(原作では、同居生活のはじまり、2巻でさっさと消化されるイベントにすぎない)。
②2002年・春アニメの勝手にベスト・オブ落ちた女の子
咲-Saki-阿知賀編 OPより落ちる園城寺怜
(C)小林 立/スクウェアエニックス・ 咲阿知賀編製作委員会 |
彼女は死線をさまようことによって、麻雀勝負の一巡先を見る能力を得るのだが、第12話にて、さらに三巡先をも、みようとして、「あれ?」真っ黒な空間を落ちていく心象風景になる。そしてさらにあきらめず見ようとして、加速して落ちていく。憔悴しきった彼女は試合終了後、本当に椅子から崩れ落ちる(その落ちる部分のシルエットがオープニングでも毎回流れていたのがわかる)。そして病院へ。以上、余談でした。
2012 7/8 本論は、せっかくブログつくったので書きおろしです。川田宇一郎