2012年12月15日土曜日

講義におじゃま

「村上春樹になってはいけない」連載中の助川幸逸郎氏にお招きいただき、横浜市大の「古典文学に学ぶ恋愛の現在」という講義におじゃましてきました。
「女の子が殺される意味の解明」と題して話し始めてみたのですが、なぜ文学や様々なメディアで、女の子は死ぬのか。しかもその作品は人気があるのかというの設問の前提として、つらつら明治以来の名作をあげるではなく、小説の単行本で200万部超の3つしかないレコードホルダーをあげてみました。

小松左京『日本沈没』(1973)    上204万部
                      下181万部
村上春樹『ノルウェイの森』(1987)  上238万部  
                       下211万部
片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)  321万部


こうして整理しながら思いついたのが、『日本沈没』(1973)、『ノルウェイの森』(1987)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)の ダブルミリオン14年周期説。すると次は2015年。今から小説を書いて2015年に発表したら、200万部超狙えるかも??

 さて余談はおいて、『ノルウェイ』と『セカチュウ』はいわずもがなですが、『日本沈没』も主人公の小野寺(深海潜水艇操縦士)中心に読めば、実は、やはり女の子が死ぬ話であり、3つが3つとも女の子が死ぬ話であることを指摘しました。
『日本沈没』内容おさらい  突如、沈んだ島の調査のため、8000メートルの海溝に潜った小野寺は、東京へ帰ると、お嬢様の玲子に引き合わされる。二人は出会ってすぐ、伊豆の別荘のエレベーターを降りて海岸でセックス。その途端、地震がきて、津波から逃げる。その後、小野寺は一年半もの間、暗い深海底にひたすら潜り調査する日々。
やがて小野寺は、玲子と再会するや、またもセックスして婚約、もう調査も終わったし、沈没する日本脱出を決意した。しかし一緒に脱出するため落ち合う直前、玲子は富士山噴火に巻き込まれ死ぬ。
村上春樹の小説へのよくある批判として、「僕」が都合よく女の子とセックスするというのがあります。ところが、たとえば小松左京の場合も、男女があってすぐセックスしてしまう(『首都消失』もそう)。ちなみに、この『日本沈没』の玲子は、あとで、誰とでも会ってすぐセックスする女じゃないと自己弁明し、小野寺に深い海の底を感じてセックスしてしまったとか。

ポーの詩論「死、とりわけ美女の死は疑いようもなく世界で最も詩的なテーマである」という言葉の意味について助川氏としつつ、女の子の下降を論じた弊著との関係を語りました。そして最後の締めくくりは、古今のアニメの落っこちる女の子のシーンをいろいろ上映しました。
『超時空要塞マクロス』第2話19分あたり(1982 MBS、タツノコプロ、アニメフレンド、スタジオぬえ)

古いところでは、『超時空要塞マクロス』のリン・ミンメイがふわふわ落っこちて、それをバルキリーで追いかけた一条くんが、コクピットに救い入れるいかにも無理やりな女の子の下降シーンとか。同じ年の『ナウシカ』の腐海の底にナウシカが落ちるところとか。
『神様はじめました』第7話11分あたり(2012 神様はじめました製作委員会)

今放映中のものだと、『神様はじめました』。やっぱりなぜか危なっかしげなビルのうえで振られた奈々生が落っこちていって、狐耳男に救われるところ。貴志祐介原作の『新世界より』のエンディングでは、船で花火や幻想をみていた早季がいきなり天地が逆転(?)して落っこちる(傑作)などなど(原作にはそんなシーンなし)。
次は映画で、小津の「風の中の牝雛」の階段から突き落とされる田中絹代なんかも、と思いつつ、刺激的で楽しい機会をご用意くださいました助川氏と横浜市立大学の皆様ありがとうございました。

2012年9月17日月曜日

元祖・人類は衰退しました

いま「人類は衰退しました」が、アニメ放送中だが、そこで初めて原作の田中ロミオ氏の小説のキャラクターデザインが、いつの間にか、がらりと変更になっているのに気づいた。

それはそうと、それこそ最初の「人類は衰退しました」のSFはなんだろう、と考えていくと、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」(1895)が思い浮かぶ。
時間旅行者は、はるか未来、ピンク色の小型化した人類たちを発見する。どうやら争いも諍いもなくなった分だけ、知性も体格も退化してしまったようなのだ。

さて、時間旅行者は、偶然、川で流されていた未来人の女のウィーナを助ける。そして庇護欲を掻き立てられるが、この未来世界では、凶暴な地底人が、井戸から這い出し、地上の人間を捕食にくる。現代に連れ帰ろうと逃げまわるが、結局、もみくちゃにされて気づいたら、女は、もう地底人にさらわれていた(たぶん食べられた)、というあらすじ。
この未来人の女が主人公のポケットを、一風変わった花瓶と思い込んで、いつも花を入れてくるエピソードがある。これが最後まで伏線として生きて、いちいち、感情を刺激する。
坂口安吾は、『文学のふるさと』で、伊勢物語で駆け落ち中の男女が、家にたてこもったが、朝になったら女がもう鬼に喰われてしまっていた話を取り上げ、こんなことを言っている。

暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走ろうとして返事すらできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。(『文学のふるさと』)

要するに、「タイム・マシン」は、時間旅行機械が初登場のSF史的な意味のある小説だが、同時に、このポケットの花瓶のエピソードによって、「草の葉の露をみて女があれは何」と同じ効果を発揮する。女の子が死ぬ話としても、読者を突き放すべく計算されている。
しかし、よくよく考えてみれば、これは折角のタイム・マシンものである。この旅行者は、女が死んだら、その未来が確定する前に戻って、過去の自分に忠告するなり、入れ替わってやり直せば、よかったのではないかとも思う(まだ当時の人には、そういう発想はなかったのかも)

2012年9月13日木曜日

「村上春樹になってはいけない」という連載の感想

プレジデントオンラインは、見たら分かるが、「なぜお金持ちは缶コーヒーを飲まないのか?」とか「なぜ行列に並ぶ人は、お金持ちになれないのか?」「お金持ちが結婚に求める5つの条件」とか今時、こんなガツガツしていいのかと、むしろ清々しいばかりのサイトである。

そんなサイトで、助川幸逸郎氏は、「村上春樹になってはいけない」という、隔週で全一二回の連載をやっている(原稿用紙にすると最終的に200枚以上になる)。直接的な利益を強調した記事だらけの空間に、ポツンと普通に村上春樹論、その図々しさが素晴らしい。これは、どうでもよくみえて、画期的なことだと思う。
内容として、村上春樹は、バブル的に消費されたように見えながら、実はバブル以降に通用する要素こそが、本質だった的な話が毎回のざっくりしたパ ターンである。つまり、「なってはいけない」の変な題名も、バブルの夢にいまだまどろむ読者への否定と同時に、可能性の肯定として、向けられているわけだ。その発表場所を利用した、企みもまた面白い(まだ連載折り返し地点なので、詳しいコメントはしない)

2012年7月12日木曜日

庄司薫の文学 〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い

東京中日新聞に記載した庄司薫論です

庄司薫の文学

〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い  川田宇一郎


 かわいい女の子たちからモテモテ、頭も良くて、有名ブランド高校にいて、頼れる友達もいて、しかも健康で深刻な悩みもなく、家はお金持ち。こんな奴は、今時の言葉でいうと「リア充」(実生活が充実していること)である。
  一九六九年の芥川賞受賞作の庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(以下、『赤』)の内容はまさにそれ。主人公の「薫くん」は、学校群導入以前の最後の日比谷高生であり、東大に苦もなく受かって当然の「お行儀のいい優等生」だが、学生運動激化による東大入試中止にぶつかってしまう。最後に東大以外に行くをよしとせず「ぼくは大学へ行くのやめたんだ」と、幼なじみの「由美」に報告し、二人は手をつないで歩き、終わる。

  だから、このミリオンセラー作品は、多くの読者に受け入れられながらも、本当は少数の学歴エリートに向けられた「男の子いかに生くべきか」の教養論と語られもするほどだ。今年の三月から新潮文庫で刊行のはじまった『赤』の解説(筆者・苅部直)でも、まず「知性のための戦い」がテーマとされる。
  実際に「優等生」の読者にとっては、直接的メッセージだし、もちろん一つの見方である。しかし、それ以外の読者は、それこそやわらかな青春の心情や、饒舌な文体の面白みに惹きつけられただけなのだろうか。庄司薫は、今回の新潮文庫化に際して、新しく「あわや半世紀のあとがき」を付しているのだが、そこにもう一つの作品のコンセプトがあると思った。
今年めでたくも七五歳になった庄司薫は、こんな昔話を紹介する。安部公房が一杯やりながら、「あのオシマイのとこ、歩きながらそっと手を差し出して、指先が触れるみたいなとこ」をあげて、「オレタッチャッタ」と語った、と。さらに実は、庄司薫自身もその部分を書きながら、同じ状態になったと告白する。なるほど最後に「由美」と手をつなぐ、ただそれだけの接触が、具体的な「薫くん」の行動として、むしろ強烈にエロチックになる。なぜならこの小説は、「薫くん」が「リア充爆死しろ」と言わんばかり、おいしい目にあいながらも、それを最後まで貯めこみ続けるからだ。
  たとえば「薫くん」は、病院にいけば、家に何度か遊びに来てた「すごい美人」な女医が、白衣の下は何もつけず診察に登場する。そして裸の乳房やそのほかもろもろを見てしまい大興奮。それなのに彼女を膝の上で休ませ、「好きです、あなたが」と告白までして逃げ出してしまう。そして困ったふうに饒舌をはじめる。〈ぼくは、平たく言えば「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がする(略)〉。好きな女の子とは、セックスしない関係のほうがしあわせ、という不思議をめぐって展開する饒舌なのだ。

九〇年代末あたりから流行しはじめる「ハーレムもの」といわれるサエない男の子が、数多くの女性からモテモテになる漫画や軽小説の類型がある。とはいえ、大奥のように子作りし放題を想像すると大違い。だいたい奥手な主人公(草食系?)が、おいしい目にあいそうになると、別のヒロインが乱入したり、お互いに邪魔しあって、結局、誰一人として、深い関係になれない状態を引き伸ばす。
  一方「薫くん」の出てくるシリーズは、『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』と七〇年代まで書き継がれているが、「薫くん」は、誰かの邪魔でもなく自分の意志で、この赤白黒青四部作を通じてずっと童貞のままだ。
『赤』の後に続く『白』では「由美」が服を一枚づつ脱ぎながら迫ってくるのに、なんとただ抱きしめ「好きなんだ」と繰り返すのみ。『青』では、ある少女に「あたしを抱きたいからこそ絶対に触らないとか、そういうの……?」と問いかけられる。
現在、「ハーレムもの」的なモテモテ主人公が振り回され、やれそうでやれないラブコメが大繁殖している。読者は何かその手のはなしから気持ちよさを感じるともいえるが、その中で「あわや半世紀」たっても庄司薫が新鮮に読まれ続ける理由は、明確に自分から回避する、やれるのにやらない「ぼく」なこと…「好きな女の子とは、セックスしないほうが幸福なんだ、という説明しにくい言葉見つける戦い」だからではないか。

東京新聞・中日新聞2012年5月24日夕刊記載を、ブログへ転載したものです)

補記
① 「ハーレムもの」の起源については、諸説あるとおもう。80年代末からはじまり、今も連載中の藤島康介『ああっ女神さまっ』でもよいのだが、そうしたジャンルの一般認識と普及を赤松健『ラブひな』(1998-2001)あたりと自分が考えただけである。
理由は、作者・赤松自身が語る「出発点にギャルゲーがあります。 いろんなキャラの女の子に主人公がもてるといった(笑)」(東京大学新聞1999年3月10日号)という、ゲームによって生まれた意識的な多ヒロイン感覚のコンセプトがある。
なお、一応、恋愛シミュレーション系のゲームでは、ほとんど「ラブコメ」状態にはならない。数あるヒロインの中から、攻略するヒロインごとに一途に交際するからだ。18禁ならセックスもするし、進行すればするほど他のヒロインはでてこなくなる。しかし基本的にシナリオ分岐がない漫画やラノベ世界において、バランスよく同時並行的にすると、それは当然ラブコメ状態でしか実現できない。つまり「ギャルゲー」を一本道で実現したい欲望が「ハーレムもの」的ラブコメを生んだともいえる。
②新潮文庫化のたいしたことない考察については過去記事参照。

2012年7月8日日曜日

ゾンビ的想像力と、二度死ぬ女の子 -『グレー・グレー』『さんかれあ』論-

はっとりみつる『さんかれあ』(講談社)

つい先ごろまで放送していた『さんかれあ』とは、ゾンビっ娘萌えの少年が、「これからも私のカラダ大切に扱って下さいね」という、美少女ゾンビを自宅に同居させるラブコメだった。一応、全話(12話)放送終わったので、感想を書いてみる
 なお、ゾンビの出てくる(出てこないのも)映画、小説、漫画への重大なネタバレ要素が盛りだくさんなので、ご注意ください。

『さんかれあ』のアニメの予告を見た段階で、自分の関心分野(女の子が死ぬ話)にも重なるし、面白そうに思ったので、まず、はっとりみつるの原作漫画を5巻まで読んでみた。
すぐ気づいたのが、高原英理の小説『グレー・グレー』(『抒情的恐怖群』所収)に、諸設定と生み出す不思議な空気が、似ていることである。おそらく偶然、似たのだと思う(この件は、高原英理氏にもお伝えした)。類似点を示した上で、では、なぜ、そっくりになったか少し考えてみる。

『グレー・グレー』(高原英理 2008年初出)

まず『グレー・グレー』の内容を、簡単にご紹介。
この短編小説では、死んだはずの和花という女が、なぜか生前の記憶を保ち続けるゾンビになってしまう。
  一方、その恋人とおぼしき「自分」が、本来なら、死後すぐ腐敗のはじまる彼女の死体を、エンバーミングを施し(血液を抜き、その代わりに防腐剤を入れ)、なるべく長持ちするように、面倒を見る。
  だから和花は、ゾンビとして、生きる時間を引き伸ばされる(厳密にはブードゥーのように術者に操られているわけでもないので、定義のゆるいリヴィングデッドと呼ぶべきだけど)。
  この小説の書き出だしは、異常な雰囲気のコンビニへ訪れるところから始まるのだが、それも和花の体が傷まないように、ドライアイスを買うためだ。和花は、たまの夜中の散歩程度で、いつもは冷房のきいた部屋に閉じこもっている。そして「自分」が様子見に訪れる。
  それでも彼女は死後、すでに「一年と二か月」たっているのだが、肉体や記憶のゆるやかな崩壊は避けらない。
ポイントは、このゾンビとの生活が、さほどおぞましくもみえないこと。なにしろ和花は生前の性格設定が「天然」にされ、この悲劇的な状況に深刻ぶることもなく、呑気なコミュニケーションの時間が流れるのだ。例えば、ゾンビの和花は、こんなふうに語る。
って、もう死、んだかと、思ったよ、あ、死ん、だんだ、けどさ
哀しみを強調するレトリックではなく、ここは単純に笑いどころのようだ。
そして、もう一つ注目なのが、和花の死因。
事故で九階から落ちて、左肩、大腿骨、首、右肘、肋骨骨折、こんなところだった。
要するに、高いところから落ちて死んだ。

『さんかれあ』(原作はっとりみつる 2010年連載開始)

はっとりみつる『さんかれあ』(講談社)
第1巻123p 落ちる礼弥
次に『さんかれあ』(原作漫画)の内容。
  主人公の千紘は、小さいころからゾンビが大好きな少年。それもホラーとして愛好するのではなく、ゾンビっ娘萌えのあまり、生きた女には興味がないという困った意味で。
千紘は、夜になると廃墟ホテルで、事故死した愛猫を蘇らそうとゾンビの秘薬の実験を重ねる(アニメでは廃墟ボーリング場)。
  そんな中、お嬢様の礼弥が、古井戸に向かって、「自由に外出させて」など不満をぶちまけている現場を目撃する。しかも、誕生日になると成長記録として、父親に裸写真を撮影されている告白までしたところで、覗き見てたことを礼弥に気づかれてしまう。それが二人の出会い。
礼弥は、夜な夜な千紘の実験を手伝いにくる形で密会を繰り返すが、やがて父親に発覚し、自殺しようと実験中のゾンビ薬を飲む。しかし死ねず、家から逃げ出したところ、父親にみつかり、わざわざ危なっかしい崖の小道でもみ合う。そして、父の振るった鞭を避けようと、数十メートルもあるような崖から転落死してしまう。

   落下を目撃した千紘が駆け寄ると、あじさいの中に囲まれた礼弥はゾンビとなって起き上がり、「約束…どおり(引用者注;死んだので。アニメだとゾンビになったので)責任取って…下さいね」という。
  ゾンビの礼弥は千紘の家に居候する。礼弥にとっては、もう人間でなくなったので、過保護な父から開放され、逆に「普通の女の子として」暮らすことができる幸せな時間でもある。
  千紘にとっても憧れであったゾンビっ娘との共同生活が始まった…。

  とはいえ礼弥の体が、死んだ人間の肉体と一緒で放っておくと腐ってしまい(脈もないので血液も循環していない)、1か月足らずで白骨化するだろうし、なんとかしないと、と考える。死体保存方法を研究し、ドライアイスを買ってきたりするが、もちろん進行を遅らせるだけで、根本的な解決方法は未だみつからない。
  そんな中、礼弥は「なんかズレてる」(3巻)とまでいわれるほどゾンビなのにポジティブで天然な性格だ。ぱっくり割れた自分のお腹を得意の裁縫で縫い合わせ楽しそうだったり、ドライアイス収納ポット付きコートをつくって得意げに学校にも通うし、とれてしまった自分の腕に「これお裁縫でくっつけられるのかな」と考えたりする。

4つの共通点

もしくは4つのセールスポイント。以下のとおり。
  1. 吸血鬼や幽霊のようなすでにロマンチックに描かれてきた怪奇対象とは違い、従来なら、恋愛が成立しがたいように思える、腐っていく死体ゾンビとの関係を書いている。
  2.  ヒロインの死因は、さほどストーリー上の必要性もなく、高いところからの落下。
  3.  ゾンビ化したヒロインの腐敗が進まないように、防腐処理等、八方手を尽くすのが、男の子の役割であり、それが二人の親密な関係の基本となる。
  4.  ヒロインの性格が異様に天然で深刻さがなく、このゾンビとの生活を別に悪くないものとして書いている。具体的にはラブコメ的(後述)である。

自分はキモチワルイものや暴力に血が大嫌いで、ゾンビ作品についても、ほとんど知らない(見るとしても目を背けながら、キモチワルイところは早送り)。だからゾンビ(生ける屍)の歴史の解説もほとんどできない。
  恋愛が成立しがたいのは、そもそもゾンビの恐怖は、圧倒的な数の暴力で無統制に襲いきて、伝染し、個がないのが特徴だったこと(G.A.ロメロの第一作より)。
  次に端的に腐ってるものは、絵的に美しくないからだろう。
  もちろんそういうイタイものこそ、今では萌え化の対象になりやすい。だからゾンビ少女がでてくるものも流行していて、結構ある(その名も池端亮の『あるゾンビ少女の災難』など…アニメ化決定!)。また今では「恋人はヴァンパイア」「恋人はゴースト」系はうんざりな感じなので、意外性なら「恋人はゾンビ」や、たとえば「恋人はミイラ」くらいやらないとダメそうだ。

世界一短いゾンビの恋愛史

  しかし一応、ゾンビとの恋愛ものでソートしてみよう。
  まず、たぶん、はじめてのゾンビ恋愛作品として、ブライアン・ユズナ監督の『バタリアン3』(1993年)がある。
  バイク事故で死んでしまった女を、その恋人の男が、ゾンビ研究している軍の施設に連れ込んでゾンビにする話。ゾンビになって蘇った女は、すぐに食人衝動が抑えられなくなり、その恋人以外を襲い、周囲に大迷惑をかけ、結局軍に回収してもらう。そこで実験材料にされてるのを見かねた男は、女と一緒に焼却炉へ飛び込むという終わり方。
  『バタリアン3』では、復活させる手段として意図的にゾンビ化するのだし、そもそもすぐ食人衝動がおさえらなくなって、一緒に過ごす時間は、まるで得られない。いろんな意味で見ると落ち込む映画である。
 
  ラノベの伊東ちはや『妹がゾンビなんですけど!』( 2011)もこの系統で、交通事故で即死してしまった妹を、兄はゾンビにしてもらう。しかし食人衝動がやはり抑えられず、大好きな兄を食べてしまおうとする。これは妹が、他人の体を食べるのではなく、自分の腕などを食べることで解決し(すぐ新しく再生する)、そして二巻へ続く。
『妹がゾンビなんですけど!』は、別に腐っていくのが避けられない死体ではなく、常人より活発。事故で崩れたはずの顔も再生してしまう(むしろ不老不死の真祖的だ。ヴァンパイアだと目新しくないので、ゾンビといっているだけのような気も少しする。木村心一『これはゾンビですか?』も同じく再生能力をもつゾンビなので、ラブコメだが省略)。

少し毛色がかわったものに漫画『水野純子のシンデラーラちゃん』(2000)がある。こちらは男女逆で、ゾンビの王子様に、生きている女の子が恋をして、自分も、結婚するためにゾンビになる話。ここでは、腐ってるカラダが、可愛く書かれているのが特徴(『さんかれあ』に『グレー・グレー』はまだ腐ってないカラダ)。
 
  要するにゾンビとの恋愛ものは少ないとはいえ、皆無ではないのだが、『さんかれあ』のように、ある一定期間、本来は腐っていく恋人の死体を腐らないように遅延させながら、静かな時間を過ごすコンセプトは、他に『グレー・グレー』だけのようだ。
 

ゾンビの機能は実は単純かも?

  なお、生前の意識もうしなった真性ゾンビとの恋愛ものは私は知らない。
  あってもいいと思うが、本来の一般イメージの(つまりロメロ的な)ゾンビ…「生ける屍」というか、「ふらふら動く屍」は、生きた人間を食べようとするだけで、犬猫より、知性や情愛がなさそうである(すきあらば飼い主を捕食しようとするペットのワニ程度?)。そのままでは恋愛対象になりえず、何かひと工夫が必要だろう。
  ロメロ作品のリヴィングデッドには、生前の無意識習慣を反復する要素はあっても、それは肉体という物質に蓄積した記憶的なもの(記憶する心臓、最近だと卜部のヨダレ?)であって、脳で統合された意識とは云い難い。

  つまり、ここで、恋愛対象になるゾンビの機能は単純なのだ。ゾンビといっても、あくまで当事者たちや、その作品の中の社会が、「死んだ」と認定しているからゾンビなだけ。しかし心臓も、免疫活動も停止、腐ってきても、生前と同じ意識があって、個性の連続性が認められたら、実際には、なかなか死んだとは云い難いように思う。
むしろ肉体が健康でなんの問題がなくとも、意識がゾンビになっているほうが、ずっと個体として死んでるし、喪失感も感じるのではないか。
  礼弥も、真のゾンビへの移行中だからこそ、生前の意識も保持し、進行が進むまで食人衝動もあまり起きない。つまり、『さんかれあ』的な生前の意識と連続するゾンビは、ゾンビのよいところ取りなのである。一度死んだものを、もう一度、留保的に蘇らすために、利用されている。

  そしてもうひとつはタイムリミットの導入だ。
 「いつまでこの状態でいられるかもわかりません。そんなに時間はないんです。体も傷んできてますし。」
「私もう死んでますけど。」(アニメ『さんかれあ』第十二話より)
 意識があるまま
痛みも…感じないまま
徐々に…
確実に…
腐敗してゆくということ-
(漫画『さんかれあ』4巻 特別読み切り 「吾輩も…ゾンビである…」)

  ゾンビの利用で、生き返る、と同時に、本当は生き返っていない仕組みが生まれる。あくまで死んだ女の子を、しかしもう一度(つまり二度)、今度は完全に死なすための猶予期間なのだ。
  もしこれがゾンビではない死んだものなら? ヴァンパイアは一応、不老不死だし、幽霊は損なわれる肉体をそもそも持たないので、こうした時限爆弾を抱えていない(それでもドラマ上、適当に制約は追加されるが)。


もう一度殺す仕組み

東野圭吾『秘密』(文藝春秋)
  だから、特にゾンビものとして見ず、死んだものを生き返らせ、そしてもう一度殺す仕組みと考えたほうが、『グレー・グレー』『さんかれあ』も、類似する話の構造を見つけやすいと思う。
  ここは、多くはとりあげないが、たとえば、東野圭吾の人気小説『秘密』(1998)なんてどうだろうか。

  この小説では、妻の直子と小学五年の娘を乗せたバスが事故で、崖から転落してしまう。
  かけつけた夫は、妻を看取り、下降した感覚を得る。







急速に熱を失っていく直子の手を握ったまま、平介は床にうずくまっていた。自分が深い井戸の底にいるような気がした。(『秘密』)
  しかしここでも、一度死んだはずの直子の意識は生き返る。
  それは奇跡的に命をとりとめた娘の体には、何故か死んだはずの妻の意識が宿っていた…という形で。
  そのあとは、娘の体は、中学生、高校生と成長する。しかも愛妻が本当は生きているので再婚もできず、妻も性欲処理してやろうとするが、やはりカラダは実の娘なので、そんなことできず、同じ屋根の下で眠りながらも、悶々とした夜……(広末涼子主演の映画版だとよりラブコメ的に改変)。

  しかしこの生き返った妻にもタイムリミットが設定されている。一応、妻が話すには、娘の意識が復活するようになり、その時間が増え、自分の意識がでてくる時間が短くなっている、と。そして完全に娘に入れ替わる日がくる(つまり、ここで妻の意識は死んだ)。
  そして娘の意識の復活は、本当は妻の創作と演技であるらしくも、匂わされている(解釈いろいろ)。妻の意識が若い肉体に入ったことは、精神自体も変調を免れず(若きファウスト博士のように)、もはや元の妻の精神でも、もちろん娘の精神でもない、第三の精神になってしまう(一種のゾンビ化)。
  そして他の若い男に嫁いで、去っていき、残された夫の喪失感のうちに作品は終わる。
 
  つまり、死んでしまった(落ちてしまった)女を、しかしすぐに死ぬことを許さず、娘の肉体を用いて、一度復活させる。
  しかしその再生した時間は、緩やかな、しかし確実なタイムリミットがあり、なるべく長引かせようと男は努力するが、いつまでも続くものではない。そして、ある一定期間、死を熟成させ、二度目に今度は完全に死なせる(消滅させる)。

こうした話が、ゾンビ的想像力と親和性が高く、『グレー・グレー』と『さんかれあ』の間のゾンビのよいところ取り諸設定の類似を生んだのではないか、というのが私の考えである。
  ちなみに『さんかれあ』は原作も未完であるので今後、礼弥がナチスの超科学とかで、完全治癒する可能性もあるし、また、『グレー・グレー』の結末は省略するが、こちらも和花がもはやゾンビとしても活動停止(腐って溶けて黒い液体になるとか)するところまでは描かれていない。

  下降とラブコメについて

アニメ「さんかれあ」OPより
(C)はっとりみつる・講談社/さんかれあ製作委員会
以下は余談的に。
  死んでるのに生きかえさせられる女の死因が、落下であること。これを『秘密』、『グレー・グレー』、『さんかれあ』の間の共通点として特記した。それは、物語が女の子を殺そうとするのはなぜか、その理由に深く関わる、と私は考えているためだ。いずれコンパクトにまとめたいとは思うが、弊著『女の子を殺さないために』で詳しく論じたので今回は説明を省略する。

なお、女の子の下降が少なくとも製作者側にとっても、どうやらキャッチーと認識されていることは、アニメ『さんかれあ』のオープニングで毎回流れたシーンからも明らかである。
  オープニングの最初では、礼弥が黒い大きな布を、ずりずり引きずりながら歩いてきて、その布の上にたち、あじさいの葉っぱをひとかじりして、その黒い布の中へと落ちていく(するすると吸い込まれていく)。これは彼女がゾンビになること=下降のシーンの象徴的再現なのだろう。
 
  またラブコメ的という言葉を特に定義せずに使ったが、これも前掲書で論じた(女の子を殺さない仕組みとして)。基本的にラブコメでは、ラブラブな二人が、たとえば同居するなどして、いつでもすぐにセックスできそうにみえるのだが、必ず、なにか邪魔がはいる。そして、いつまでも深い関係になれない状態を引き伸ばす。それがパターン化すると、もはやコメディ化してしまう。つまりセックスできそうで、できない気持ちよさから動いている。これが私の定義である。

  『さんかれあ』は典型的なラブコメと考える。それは、モテモテの主人公にアプローチするのは、ヒロインの礼弥だけではないからだ。その他に、胸が巨大で性的魅力全開の幼なじみの蘭子がいて、やはり彼女も主人公が大好きで、礼弥と蘭子が、お互いがお互いを邪魔ないし、遠慮しあって、関係が深まるのを阻止する(要するに、三角関係…漫画ではさらにゾンビ研究家の少女が追加される。祭りにデートに行っても、女の子3人)
  そもそも主人公は、礼弥のカラダを大切にしなくてはならないので、無理な力や負担かかることはしなそうだが。
 
  『グレー・グレー』の場合は、セックスというか、性交渉のできない関係が、もっと具体的でわかりやすい。ちょっとグロいが、次のように書かれる。
まだ死んで間もない頃、大丈夫やれるよ、と和花が言うから、入れようとしてみたが、そこも縫い閉じてあって、入らなかった。体孔の縫い目を切るとそこから腐りますよ、と葬儀社の人は言っていたので、性器と肛門を開くことはできないとわかった。口も大きくは開かない。
だから和花は、次のように「自分」に問いかけたりもしている。

それ、よか、セックス、できない、の、残念?

  この部分を読んだときには、内田春菊の『南くんの恋人』(1986)を思い出した。この『南くんの恋人』も、なぜか身長16センチになってしまったヒロインのちよみと同居生活を送る話だが、小さいことに不満げな南くんにちよみは、「せっくすできないから?」と問う。

高原英理『抒情的恐怖群』
(毎日新聞社)






このように『さんかれあ』を読んだ人は、高原英理『グレー・グレー』もあわせて読むと いろいろ面白い、と思う。ゾンビの設定も高原の場合は、世界同時発生的な、なぜか死者が生前の人格のまま甦る(とはいえ大抵、生者を恨み凶暴化する)世界を書いている。 血を抜いて防腐剤をつめることを和花が興奮しながら報告したり、やはり生者と違うゾンビ独特の感覚を語ったりする。なぜ題名が「グレー・グレー」なのか、それもわかるかも。『抒情的恐怖群』という単行本に所収されている。

 

 

 

 

 

補記

①『さんかれあ』原作とアニメの違い
『さんかれあ』は、コミカルな原作とくらべ(コミックだからコミカルとは限らない)、アニメ版のほうがねちっこく、エロい。
たとえば、ヒロインが古井戸に向かって叫ぶ、誕生日のたびの父による裸撮影の強要の扱い方。漫画では、主人公はそれをきいて、ジュースを噴きだすだけで扱いが軽い(ダリオ・アルジェント監督が『鮮血の叫び』で、娘アーシアの裸を撮影するエピソードを聞くような…)。
  ところがアニメでは、誕生日に撮影された写真と、成長とともに年々、つらく嫌そうになる(でも断れない)ヒロインの様子が克明に映像化される。
そのせいか、アニメでは11話に礼弥の父親と主人公の対決部分(フェンシング)を、もってきて、わかりやすく終わった(原作では、同居生活のはじまり、2巻でさっさと消化されるイベントにすぎない)。

②2002年・春アニメの勝手にベスト・オブ落ちた女の子
咲-Saki-阿知賀編 OPより落ちる園城寺
(C)小林 立/スクウェアエニックス・
咲阿知賀編製作委員会
散華礼弥だと思ったけど、実は『咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A』の園城寺怜に軍配があがった(あくまで自分的に)。
  彼女は死線をさまようことによって、麻雀勝負の一巡先を見る能力を得るのだが、第12話にて、さらに三巡先をも、みようとして、「あれ?」真っ黒な空間を落ちていく心象風景になる。そしてさらにあきらめず見ようとして、加速して落ちていく。憔悴しきった彼女は試合終了後、本当に椅子から崩れ落ちる(その落ちる部分のシルエットがオープニングでも毎回流れていたのがわかる)。そして病院へ。以上、余談でした。


2012 7/8 本論は、せっかくブログつくったので書きおろしです。川田宇一郎

2012年6月29日金曜日

代表作(人気作)はなんじゃろ。古井由吉らんきんぐ


 『文藝』の2012年夏号に〈偏愛的「古井由吉他薦作品」〉というコーナーがあった。14人の作家が3タイトルづつ挙げていている(石田千だけ何故か1つ)。
古井由吉は、作風も二度くらい変わるし、それぞれ安心のクオリティーで、なにが代表作とも云い難い作者。それでもどれが人気あるんだろう、と思って勝手に集計してみた。ただそれだけの、ほとんど読書会の課題本選定と自分用メモ。



得票の少ない順から。


1票  『瓦礫の陰に』 『白暗淵』 『木犀の日』 『愛の完成、静かなヴェロニカの誘惑』(翻訳) 『やすら いの 花』 『野川』 『夜明けの家』 『神秘の人びと』 『詩への小路』 『グリムの幻想 女たちの15の伝説』 『人生の色気』 『楽天記』 『白髪の唄』  『眉雨』 『杳子』 『聖』 『やすらい花』
2票  『蜩の声』 『野川』
3票  『山躁賦』 『辻』 『仮往生伝試文』
4票  『槿』

見てわかるように、一票の作品がほとんど。見事にバラけている。やはり古井由吉には代表作なし、というか、どれもが代表作と考えるべきか。

一応、4票の『槿』が最多得票

実は、チョイス自体も心理ゲームのようだ。選者の一人、平野啓一郎は〈「偏愛的」とあるので、『山躁賦』や『野川』など、真っ先に名前の挙がりそ うな代表作を避け〉と書いている。つまり名前の挙がらなそうな作品を腹をさぐりあった結果が見事、こうなったようだ。普通なら、『杳子』、『聖』、『白髪 の唄』あたりも、もっと票を伸ばしそう。『槿』が一位というのも意外。
しかし松浦寿輝はそんな探りあいの中でも、偶然、上位になった作品ばかりを挙げる。『槿』『山躁賦』『仮往生伝試文』。これもすごい。
写真。うちの『槿』は、福武文庫のだった。

庄司薫4部作の新潮文庫化について


東京中日新聞2012年5月24日夕刊に、「〈好きな女の子とは、しない〉ための戦い」という庄司薫論を記載していただきました。イントロはこんな感じ。
 かわいい女の子たちからモテモテ、頭も良くて、有名ブランド高校にいて、頼れる友達もいて、しかも健康で深刻な悩みもなく、家はお金持ち。こんな奴は、今時の言葉でいう「リア充」である。
元記事自体が、原稿用紙4枚くらいなので、要約できず、申し訳ない。リア充の「薫くん」が今読まれる意味について考察したものです。もしご興味のある方は、図書館で読んでいただけたら嬉しいな、と思います。
さて、新聞記事に書ききれなかった(しかし一応自分用メモとしてまとめた)補記のようなもの。

新潮文庫について
今年の3月からはじまった新潮文庫リニューアル発行によって、庄司薫のプチブーム(?)がはじまった。その流れの中に、上記の庄司薫の今日的意味を問いなおす記事もある。だからリニューアル新潮文庫化の特徴について語ってみよう。
もちろん誰でも手に入る簡単な情報を、再整理するだけ(一切内容には触れず、書誌ぽく?)


「薫くん」シリーズ=赤白黒青四部作の新潮文庫書影。赤緑黒青ではない…(先行する赤白の二冊だと『ノルウェイの森』上下巻と同じクリスマスカラーになる計算?・・・とりあえず書店で二冊並べば目立つ)。
中公文庫は著者自身が装丁している。一方新潮文庫のデザイナーは、長崎訓子氏。前者は味わいとファンごころをくすぐるが、後者は、やはり餅は餅屋というべきか。それぞれのシンボルカラーを強調したスタイリッシュなデザイン。


中公文庫vs新潮文庫 購入価格
赤黒白青四部作の総購入価格だと、中公文庫は2,900円、新潮文庫は2,154円。差額746円! なんと新潮でそろえると、中公と比べて、文庫約一冊分お得についてしまうコストパフォーマンスぶり。中公は、まだ潤沢に在庫があるようだし、不良在庫にならないのか、心配になる。余計なお世話? うん。

さらに解説者年齢比較
(『白』は、なぜか中公→新潮でも、解説の女性枠の伝統が引き継がれている)。平均36歳も若返っている。 簡単にいえば、中公は、山崎正和氏以外は、1937年生まれの庄司薫(福田章二)より一世代以上、年上が書いていた。一方、新潮の解説は、1950年生ま れの「薫くん」より少し年下(つまり最も多いリアルタイム読者層…完結時くらいに「薫くん」の年齢に追いつく世代)が書くようになった。
ただしそれぞれの文庫刊行時の平均年齢で考えると 50代前半のほぼ同じ年令の人が書いている(赤白黒は1973年、青は1980年に中公文庫化)。解説者適齢期というのはあるのかもしれない。生まれ月や発行月は無視した、ざっくりした計算だが、こんな感じである。
このように一新された表紙に、若返った解説陣、お求めやすい価格と三拍子そろった。更に加えて、文庫2ページほどだが、著者・庄司薫自身による新 たな後書き「あわや」が追加されている。さて、どのくらい売れているのか。すごく売れたら、その「今売れてる!」という情報が宣伝になるので大本営発表さ れるのだけども。
追記)一つだけ、著者装丁以外に中公文庫を選ぶメリットをあげると、やはり高い分だけ、紙や作りがいいような気がする。新潮文庫はすぐにくたびれてしまうが、中公文庫は湿気に強く、大切に読めば長持ちするような気がする。あくまで気がするだけの個人的感想だよ。

女の子を殺さないために・紙媒体紹介状況

tumblrからの移行に伴い、弊著「女の子を殺さないために」について、紙媒体でご紹介いただいた状況を整理しなおします。

2012年3月25日発行 読売新聞
尾崎真理子氏による評。ありがとうございます。

 読売オンラインで全文が読めるので、こちらへ


2012年4月22日発行 東京中日新聞 「この本この人」
久間木記者によるインタビュー+書評記事。ありがとうございます。




「女の子を殺さないため」の小説の仕掛けなどを、資料を博捜しながら検討していく。キーワードは「歩行」と「幼なじみ」。もう一つ付け加えるなら「下降」だろうか。(書評部分より)


2012年5月29日発行 サンデー毎日(6/10増大号) 著者インタビュー (p114)
北條一浩氏によるインタビュー+書評記事。ありがとうございます。




本書の面白さは謎ときよりもむしろ、「物語とは何か?」にあらためて迫っている点にあるだろう。(書評部分より)