それはそうと、それこそ最初の「人類は衰退しました」のSFはなんだろう、と考えていくと、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」(1895)が思い浮かぶ。
時間旅行者は、はるか未来、ピンク色の小型化した人類たちを発見する。どうやら争いも諍いもなくなった分だけ、知性も体格も退化してしまったようなのだ。
さて、時間旅行者は、偶然、川で流されていた未来人の女のウィーナを助ける。そして庇護欲を掻き立てられるが、この未来世界では、凶暴な地底人が、井戸から這い出し、地上の人間を捕食にくる。現代に連れ帰ろうと逃げまわるが、結局、もみくちゃにされて気づいたら、女は、もう地底人にさらわれていた(たぶん食べられた)、というあらすじ。
この未来人の女が主人公のポケットを、一風変わった花瓶と思い込んで、いつも花を入れてくるエピソードがある。これが最後まで伏線として生きて、いちいち、感情を刺激する。
坂口安吾は、『文学のふるさと』で、伊勢物語で駆け落ち中の男女が、家にたてこもったが、朝になったら女がもう鬼に喰われてしまっていた話を取り上げ、こんなことを言っている。
暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走ろうとして返事すらできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。(『文学のふるさと』)
要するに、「タイム・マシン」は、時間旅行機械が初登場のSF史的な意味のある小説だが、同時に、このポケットの花瓶のエピソードによって、「草の葉の露をみて女があれは何」と同じ効果を発揮する。女の子が死ぬ話としても、読者を突き放すべく計算されている。
しかし、よくよく考えてみれば、これは折角のタイム・マシンものである。この旅行者は、女が死んだら、その未来が確定する前に戻って、過去の自分に忠告するなり、入れ替わってやり直せば、よかったのではないかとも思う(まだ当時の人には、そういう発想はなかったのかも)